| 日豊本線幸崎電化後の大分以北へのDF50と、電化複線化の記憶(補遺) |
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メモや日記、写真に記録したものではないので曖昧ですが、私の記憶では、電化後も中津−小倉をDF50牽引の客車列車に乗車していたように憶えています。 当時、親せきのある中津には頻繁に通っていて、行きは筑豊線からやってくるC55を黒崎から、そして小倉からはED76に引かれた柳ヶ浦行きか大分行きに乗って、中津には夕刻に着いていました。 この筑豊線からのC55とED76牽引の柳ヶ浦行きや大分行きの組み合わせはほぼ不動で、これ以外の列車で行くことは、電化後は希でした。 それに比べて帰りはまちまちで、強いてあげれば、日中に走る大分発門司港行き客車列車(この列車は編成後方が荷物車で、編成前方の客車はいつも混んでいた)か、後年は今津発の421系423系電車(これは中津から二つ先の閑散駅始発なので必ずボックスが取れた)を利用することが多かったものです。 少し話が逸れましたが、この日中に走る大分発門司港行き客車列車が、電化後もDF50牽引だったように記憶しています。特にDF50の重連だった時は、インカーブで窓越しに見える2両のDF50に見入ったものでした。 その後はED76+DF50に、最終的にはED76重連へと変遷していったのではないかと思います。 この列車を利用する時期は、たいていの場合、学校が休みの季節や5月の連休のころでしたから、重連だったのは季節列車か臨時列車のための回送だったのかもしれません。 幸崎電化時のED76のことは、ずっと後になって鉄道雑誌等で知ったのですが、当時はED799からED7626までの18両では所定の両数が足りなくて、しばらくは大分以北にDF50の運用が残っていたようです。 1年後のヨンサントー改正でED74が6両加わったものの、ヨンサントー自体が列車の増発を伴っていたためED74には予備車が確保できず、それで昭和44年10月にED7627とED7628を新製してようやく予備車を確保できるまでになったと記憶しています。 電化後の大分−門司港のDF50の運用は、電化が完成したにもかかわらずDF50が入線していたことで、小学生だった当時から興味を持っていたのですが、今では子供のころの記憶が唯一なので、これ以上のことは分かりません。 DF50は、幼いころの私にとって大変不気味な機関車としての記憶が残っていまして、たぶんそのころは茶色塗装だったのでしょう。そして、すすで薄汚れた車体は不気味さを倍増させ(朱色になってもすすけていたので、同じように不気味でしたが)、さらに当時は珍しかった黒色Hゴムと共に、窓部分がわずかに傾斜していたことでガラスが光を反射させ、背の低い子供の目線からは窓ガラスがいつも銀色に輝いて見えていた、そんな窓周りの印象(2枚の窓が生物の目に見えていた)から不気味さを感じていたのだと思います。 しかしそれも、小学生になってからはその不気味さがDF50の魅力へと変化して現在に至っています。そのせいか、全検出場後などのきれいでピカピカのDF50は、私の知っているDF50ではない、と言えるくらい別形式のように見えていました。 日豊本線大分以北は、その後も一時的にED74やED76以外の機関車が運用についたことがありました。 日豊本線小倉−中津の変化に関しては、電化工事や複線化工事の進捗の様子をつぶさに見てきましたので、小倉−中津においては日豊本線の最初で最後の変革を見たような、そんな思いがあります。 残念ながら、地形的に変化に富んだ中津−大分は、中津から親せき一同で別府や大分へ遊びに行く時くらいしか行っていませんので、大分以北の大変革のすべてを見ることはできませんでした。それでも、新線建設の進捗、旧線への切り替え、廃線となった旧線が次第に自然に還っていく様子など、今では経験できない時代を生かせてもらったと思っています。ただ、写真等、それらを再現できるものがいっさい無く、すべて記憶だけですが。 記憶にあるものを思い返してみますと、 南小倉の小倉側と紫川側のそれぞれに引き込み線が分かれていました。小倉側は町の中心部に向かい、紫川のほうは山田弾薬庫方向だったと思います。 下曽根の今は無き旧2番線は当時は待避線で、いかにも低規格線路というような乗り心地とジョイント音を再現してくれる線路でした。待避等でこのホームに進入するときは、右に左に船のように大揺れするその独特の乗り心地を堪能することができました。もっとも、当時はたいていの駅で、待避線はこのような線路でしたから、高規格化された本線との対比がおもしろかったものです。 苅田も前後にそれぞれ引き込み線があって、朽網側は小型タンクSLが入れ換えをしていました。今は、小型タンクSLが走っていた大きくカーブする廃線跡の確認は難しいのですが、小波瀬側の山側へ延びていた廃線跡は残っています。 小波瀬にかけては線路の上を、石灰石を運搬するリフトがひっきりなしに通っていました。また、リフトから石灰石が落ちてこないかとビクビクでした。今はどこをリフトが通っていたのか確認できません。 行橋と新田原の間は、複線化工事の時に新線が旧線から離れて最短距離で建設が始まり、その結果、大回りする旧線はいったい何だったのだろうと、奇妙な印象を受ける箇所がありました。現在は、大回りしていた旧線も、最短距離の新線に沿って作り直され、大回りしていた旧線は自然に還りました。 新田原から先は、電化はさらに1年あとになり、そのうえ複線化はマイペースといったところでしたが、新田原−築城だけは直線の旧線から大きく迂回する別線複線化の工事が、電化工事に合わせて始まりました。 当時は、なぜわざわざ遠回りするのだろうかと、旧線を走りながら列車の窓からその工事の様子を見ていたものです。 築城では、自衛隊基地に向けての引き込み線があったと思います。 豊前松江−宇島は複線化が遅れた区間で、完成は昭和40年代中ごろではなかったでしょうか。 豊前松江近くの海岸ぎりぎりに残る旧線跡を見ると、当時ここを通っていたころのことがよみがえります。車窓からは、目の前の防波堤がコンクリートの壁となって景色をさえぎるのですが、小さな鉄橋のところで一瞬海が見えました。 宇島には発電所があり、そこに一直線に引き込み線が走っていて、単線未電化のころは、カーブする日豊本線に対して、引き込み線の方が本線のような印象でした。今は線路跡は列車からは確認できないかもしれません。 宇島−三毛門も、複線化工事は遅くなってからだったと思います。宇島の前後は、低いものの小さな切り通しがあり、踏切もあり、民家がごちゃごちゃしていて、こんなところに新しく線路が造れるものかと見ていましたが、あっけなくできてしまいました。 三毛門−中津は、何段階かに分けて複線化工事が行われました。山国川にかかる鉄橋は、柳ヶ浦の駅館川鉄橋と同じく、両サイドのすっきりしたきれいな鉄橋でしたが、列車に乗る分には両サイドに何らガードになるものはなく、一風吹けばそのまま列車もろとも川の中に転げ落ちそうで、子供のころはスリルいっぱいでした。今は、この鉄橋跡を見つけるのは難しいかもしれません。 この付近は段階的に時間を追って、鉄橋の前後で上下線が分岐したり、そして、中津の高架工事が一番の難工事でしたから、変化も段階を追ってにぎやかでした。 中津は、複線化工事が、前後の高架工事と駅の高架工事に並行して進められました。まず国鉄の3番のりばを使っていた大分交通耶馬渓線が少し離れたところに専用ホームをつくり、次に国鉄のホームに修正が加えられ位置を変えたりして、高架の足場を確保していく方法で工事が進められました。 中津の三毛門側は、大小の踏切を伴い民家や商店が立て込んだ純然たる昭和初期の光景でしたが、その生活臭をプンプンさせる光景が駅の高架化で消えていったのは、「昭和の遺物」という観点からは残念なことでした。時代の流れから見れば無くなる運命にあったのですが、「昭和」をテーマにした博物館などでミニチュアで再現できれば、日本が大きく発展した一時代の文化を後世に残せると思うのですが。 車窓からよく見えていた「キンチョウ」とか「カクイワタ」などの、乗客に見せる宣伝看板も珍しくなったものです。むかしは、随所にあったように記憶していますが。 中津では三毛門側の山側の工場に引き込み線が、反対側には大分交通耶馬渓線が分岐していました。 耶馬渓線側は、私の親せきの家があった場所ですが、駅近くから線路に沿って製材工場が広がっていて、いつも木材を切断する音や材木の臭いが辺りを覆っていました。 ところで、電化前の中津駅は、1番のりばと2番のりばの間に、両ホームの線路に直角に交わるようにレールが敷かれ、そこを車輪を付けた台車のようなものでホーム間の荷物の受け渡しを行っていたと思います。 他の駅でも、同じように直角に交わるレールを見た記憶がありますので、改札口が1番のりばに面している駅で荷物や郵便物を運ぶクレーン設備のない駅では、このような方法で荷物や郵便物を運搬していたのでしょうか。いつか、鉄道雑誌などで取り上げられることを期待しています。 中津は、特に南西部は区画整理や再開発で町自体が激変してしまいました。 中津から先では、電化と複線化が同時進行したのは、立石越えと別府付近だけだったと記憶しています。旧別府駅も憶えてはいるのですが、高架の新駅は電化開業よりも早めに完成していたように思います。 ところが、その後に改築や新設された高架駅が、どれもみなこの方式の駅で、次第に無味乾燥な何とも殺伐としたつまらない駅に感じられるようになっていきました。 今では、どこへ行っても、規模の大小はあっても、高架駅はこの方式のようです。 電化工事に関しては、中津までの平坦線は築城飛行場の高度規制を除けば、変化したものは架線柱や架線、それに変電所の設置くらいと思っていましたが、宇佐以南のトンネル区間では、トンネル断面や勾配緩和の関係でかなり大変だったようです。 立石越えは別格として、中山香−杵築はトンネルや橋梁が新たに置き換えられ、旧線は廃止になりましたから、この区間は変化に富んでいました。 特に、大川司信号所−杵築の旧線と新線が立体交差する部分は、子供のころの私には、クエスチョンマークが二つも三つもつくくらいのミステリーゾーンだったのですが、残念ながら、そのあたりの工事中の写真や旧線の風景等、当時の様子を記録したものや話題は鉄道雑誌等ではお目にかかっていません。(注:2003年10月発行JTB「鉄道廃線跡を歩く10」で、なんとこの場所を含む日豊本線大分以北の電化にまつわる廃線跡が取り上げられました。大感激です。) すでに、無煙化に始まる日豊本線の近代化は、とうの昔に完了してしまいましたが、最初の立役者である「大分のDF50」が保存されていないのは、残念なことです。 日豊本線は、鹿児島本線に先がけて、九州で初めて本格的に旅客列車の多くが無煙化されたのですから、DF50の功績や存在意義は大きいと思います。 新田原電化から始まった日豊本線近代化の変遷は、私にとって幹線の近代化の様子を目の当たりにした最初で最後の出来事でした。欲を言えば、鹿児島本線荒木電化や博多新駅移転の様子を体験できていれば、もっと良かったのですが、そのころはまだ物心が付いていないか、もしくは、西鉄北九州線電車で十分満足していた年齢でした。 子供のころは、列車に乗ると必ず進行方向右側で、前を向く側の座席に座り、少々寒くても窓を開けて顔を出して外を見ていましたから、沿線風景や変遷を見る目は真剣そのものでした。 昭和39年から昭和43年にかけて受けた印象が、私の人生で一番強烈なのですが、現在と違って、鉄道にとってはたいへん変化に富んだ時代だったと思います。 当時は、古いものも結構残っていましたし、581系寝台電車のような、とんでもない車両の出現などもありましたから、主要幹線の近代化の最終段階という時期も加わって、これらをリアルタイムで経験したこの世代の人間に共通するものかもしれません。 ちょうど、テレビでも、ウルトラQやウルトラマン、エイトマン、スパージェッターなど、子供にとっては強烈すぎる番組が目白押しだった上に、身近な日用品や菓子類にまでそれらが浸透していましたから、感受性を向上させる要因になっていたのかもしれません。 |