諏訪 巧 会員紹介


733レ C5519 折尾駅 S45年11月8日


D6061 若松機関区 S48年10月14日

会員番号 9607
姓 名 諏訪 巧(Suwa Takumi)
主な担当 書籍・サウンド・ホームページ(旧ホームページ)制作担当
出生地 北九州市八幡西区永犬丸(1959年生まれ)
居住最寄り駅 JR九州 鹿児島本線香椎駅
職 業 印刷会社勤務
他のサークル なし
趣味対象 昭和50年代以前、特に昭和39年ごろから昭和56年ごろまでの鉄道全般
好きな車両 SL…4110、6760、9600、8620、C10、C11、C12、C50、C51、
SL…C53、C54、C55(特に若松時代のC5557)、C56、D50、D60
DL…米子機関区と大分運転所(宮崎機関区)のDF50 500番台、DD50、DD54
EL…ED16、ED17、ED18、ED19、ED72量産型、ED73、ED74、EF10、EF11、
EL…EF30、EF50、EF51、EF52、EF53、EF56、EF57の1号機、
EL…EF58(特に下関時代のEF5831)、EF61、EF63、EF66(ヒサシ無し車)
EC…クモハ12等の17m車、クモハ40・41・42・43・51・クハ47等の20m車、
EC…80系、153系、クリームの帯が引かれていた頃の421系・475系、
EC…バックミラーがついていた頃の581系
DC…キハ10・17、キハ20・25、キハ26・55、キハ58系、キハ82系
PC…丸妻リベット付き扇風機なしニス塗り白熱灯のオハフ33、オハフ61
FC…セラ、セム
私鉄…ワンマン化前の西鉄北九州線、西鉄旧標準色のころの西鉄宮地岳線、
私鉄…大分交通耶馬渓線
鉄道に関することで残念だったこと C5557が解体されてしまったこと。C5557の主動輪を見ることによって、ようやく解体の事実を自分なりに受け入れる気持ちになった。
他には、421系電車、ED72量産型、山陰か日豊のDF50 500番台がいずれも保存されなかったこと。
鉄道以外に興味のあるもの
  • 旅客機(特にDC8とDC10)
  • 野鳥(シジュウカラやメジロなどの小形の野鳥)
  • セミ(特に幼虫が成虫に羽化する様子)
  • クワガタムシ(ノコギリクワガタ、ヒラタクワガタ、コクワガタ)
  • 子供のころ見たテレビや映画。(昭和30年代後半から昭和40年代)
    理由は、物質的には豊かではなかったが、人々の心は豊かで、希望に満ちあふれた夢を持てる時代だったから。
    (少年忍者風のフジ丸、忍者部隊月光、ウルトラQ、快獣ブースカ、高速エスパー、鉄人28号、エイトマン、ビッグX、W3[ワンダースリー]、スーパージェッター、ハリスの風、戦え!オスパー、レインボー戦隊ロビン、宇宙パトロールホッパ、宇宙少年ソラン、遊星少年パピイ、あかねちゃん、ファイトだ!!ぴゅー太、悪魔くん、河童の三平妖怪大作戦、バンパイヤ、どろろ、サスケ、忍風カムイ外伝、ちびっ子怪獣ヤダモン、トランスグローバル版のトムとジェリー、妖怪人間ベム、怪奇大作戦、マイティジャック、キイハンター、鉄道公安36号、三匹の侍、素浪人月影兵庫、素浪人花山大吉、栗塚旭主演の新選組血風録・用心棒シリーズ・風、待っていた用心棒、渥美清十朱幸代のおかしな夫婦、泣いてたまるか、荒野の素浪人、でっかい青春、見合い恋愛、おくさまは18歳、なんたって18歳、ピンキーとキラーズの青空に飛び出せ、サインはV、アテンションプリーズ、美人はいかが、好き好き魔女先生、大隅正秋演出の第一シリーズルパン三世、S46年版天才バカボン、TV版大いなる旅路、ゴジラ(S29年)、空の大怪獣ラドン、海底軍艦、大怪獣決闘ガメラ対バルゴン、大魔人、大魔人怒る、大魔人逆襲、中田浩二吹き替え版のシェーン、日本語吹き替え版の荒野の用心棒、日本語吹き替え版の夕陽のガンマン、日本語吹き替え版の続夕陽のガンマン、日本語吹き替え版の怒りの荒野、日本語吹き替え版のダーティーハリー1作目、日本語吹き替え版のチャールズブロンソンのストリートファイターなど)
食べ物の好み 特に好き嫌いはない。
言いたい放題

生まれ

 現在、福岡市に居住していますが、人格が形成されるまでの14年間、感受性の一番強い時期を鹿児島本線の黒崎と折尾、筑豊本線の直方の3点を結ぶ三角形の中心より少し北に位置する筑豊電鉄の永犬丸、という所で過ごしました。また、ここが生まれたところでもありました。

 永犬丸は、地理的には折尾駅まで自転車で20分くらい、鹿児島本線と筑豊短絡線、それと今はなき西鉄北九州線の三本が併走する区間もやはり20分くらい、筑豊本線中間−折尾間の立体交差付近(現在の東水巻付近)までも20分くらい、という所でしたから、鉄道好き、特に蒸気機関車好きにはまるで天国のような所でした。

 小学生の頃など、学校が終わって自宅近くの空き地で遊び仲間と草野球やサッカーをしているとき、現在の東水巻付近を走る蒸気機関車の汽笛が聞こえたものです。また、風の穏やかな静まりかえった夜は、寝床の中で東折尾駅で入れ換えを行う9600の汽笛やドラフト音を聞きながら眠りについたものです。

鉄道好きのきっかけ

 鉄道好きの始まりは乳幼児期の昭和35年ごろ、八幡製鉄に勤務していた父の帰宅を迎えに、筑豊電鉄永犬丸電停に母の背中におぶされて通ったことでスタートしたようです。目の前を右に左に行き交う西鉄電車が徐々に脳裏に焼き付けられていったのでしょう。物心ついた頃には、父に北九州線の乗り歩きに連れてもらっていました。当時はまだ、ワンマン化はされておらず、3両連接車が登場したころで、2両連接車のツーマン化はもう少し後だったと思います。その辺の記憶は曖昧ですが。

 実際に乗るのは連接車が好きでした。理由は右側の最前列が展望席で、いつもここをねらっていました。それに連接車は乗り心地がよかったですから。

 もっとも、路面軌道よりは専用軌道の方が好きでしたので(路面軌道はスピードをあまり出さないし、専用軌道のように架線を吊るビームやポールなどの変化に満ちた刺激のあるオブジェクトが無い、レールや枕木が見えず延々と続く踏切のよう、ロングレールを多用していたのかジョイント音が聞こえにくい、などの理由で)、八幡中央町から戸畑に至る路線と幸町から大門に至る路線を好みました。

 小倉に買い物に出かけるのに国鉄線に乗らないときは、永犬丸から幸町経由の砂津方面行きに乗ったものです。ただ、当時筑豊電鉄からこのルートの電車が走っていたかと言われると少々あやしいのですが、もしかしたら黒崎車庫前あたりで乗り換えていたかもしれません。

 余談になりますが、黒崎車庫前と言えば、永犬丸への帰りに筑豊電鉄の運転手と交代するときの電車の数珠つなぎ、その時向かい側の町工場から聞こえてくる「カタンコトン」という規則正しい機械音、そして、電車のコンプレッサーの音、これらは今では接することのできない懐かしい思い出です。

 乗るなら後期型の連接車が好きでした。前期型は正面の方向幕が角張っていたり、木材が多く使われていたので幼稚園の頃は好きではありませんでした。その後、小学生になって今度は逆に古めかしい前期型の方が好きになりました。それと最終グループのたしか1062〜1064は正面の方向幕が巨大で不恰好だったのでこれも好きではありませんでした。

 また、見るなら70番台、80番台、100番台、200番台、それとやたら全長が長い500番台が好きでした。

 その後、昭和40年代中ごろでしたか、ワンマン化改造が始まると、一気に魅力が失せてしまい、その後車体の色が茶色から朱色に変更されてほとんど興味を示さなくなりました。

 さらに赤くなり最後は白くなったのでしょうか。中学生の頃に福岡市に引っ越したあとは鹿児島本線の車窓から眺めるくらいで、そのあたりの変遷はよく把握していません。

 いずれにしても、西鉄北九州線の電車を永犬丸電停で繰り返し見ていなければ、私の鉄道好きは起こり得なかったわけですから、命の恩人ならぬ鉄道趣味の恩人です。

八幡製鉄と製鉄専用車両

 小学生のころは、クラスの大部分が八幡製鉄かその関連企業の家族でした。小学校全学年全クラスがそうでした。また、私の自宅の周りも間違いなく八幡製鉄かその関連企業の家族でした。おまけに毎年11月18日の八幡製鉄起業祭は、私が通っていた小学校は休校でした。

 一企業の起業祭で公立学校が休校というのは今では考えられないことですが、当時、北九州市八幡区と戸畑区は八幡製鉄を中心に物事が動いていましたので、子供のころの私にとって何の疑問も違和感もありませんでした。

 毎年11月18日の八幡製鉄起業祭は楽しみでした。それは、工場見学で普段は見ることのできない製鉄専用貨車や機関車を見ることができたからです。製鉄所内の貨車はどれもふだん国鉄線上などで見る貨車とは形態的に大きく違っていて、まるで異次元の空間に入った気分でした。特に銑鉄を運ぶお鍋のような茶色くさびた大きな貨車は、それはもう迫力満点でした。自分の10mくらい離れたところをかげろうを放ちながらゆっくり通過するときなど、ものすごい熱気で手で顔を覆うくらいでした。

 現在の製鉄所内の専用貨車はどれもスマートできれいな車両に変わり、昔のような迫力は感じなくなりましたが、それでも異次元の空間には変わりなく、興味をそそるものです。

 しかし、工場見学が縮小され、高炉のある戸畑製鉄所が開放されなくなった現在、もうあのころの体験ができないのかと思うと残念です。

対象の広がり

 興味の対象が西鉄北九州線電車以外に広がるのは時間の問題でした。特に、小学校の徒歩遠足が筑前垣生駅近くの垣生公園だったのは、まさに、気違いに刃物でした。線路に近寄る自分に、担任の先生も手を焼いたと思います。

 私にとっての蒸気機関車は、スポーク動輪がスタンダードでした。目に映る蒸気機関車は8620、9600、C11、C50、C55、D50、D60、どれもスポーク動輪でした。C57は後でふれる日豊本線中津の母の実家に行く時に、また、D51は門司に相当数がいたのでかなりの頻度で見ていたはずなのですが、そのころは大して気にもしていませんでした。

 もっとも、D51は昭和43.10改正で東北から押し寄せてきましたので、筑豊地区でもいやでも見る機会が増えたのですが、それもつかの間、2年後の久大本線無煙化で余ったD60が結果的にD51を追い出すことになり、若松のC55置き換えのためのC57やD51の入線を許すまでは、スポーク動輪の楽園だったことを考えると、なんとすばらしい黄金地帯だったのだろうかと、今でもつくづく思い知らされます。

 走ってくるC55は、真横から見るとスポーク動輪が透けて向こう側の風景が見えるのですが、これが子供ながらに門鉄型デフレクターと相まって、その流れるようなスタイルに何とも言い難い優雅さを感じていました。

 そして、いつしか外見の形状だけでC55の番号がわかるようになり、汽車見に行く仲間の間で誰が一番遠方で番号を当てられるか競ったものです。

初めての車両番号認識

 初めて車両の固有の番号を認識したのはC5557でした。その時のいきさつは記憶にないのですが、気がついたときにはC5557の番号を覚え、また、この機関車が一番格好良いと記憶に刻んでいました。この時が、何型の何番というように、鉄道車両を型式とともに番号まで認識した最初だったように思います。

 しかし、本当の意味で型式を理解したのは、父が買ってくれた鉄道関係の書籍によるところが大きかったと思います。中でも、「機関車ガイドブック」と「蒸気機関車スタイルブック」の2冊は、私にとって最高の教科書でした。

 特に、「蒸気機関車スタイルブック」は、この当時すでに絶滅してしまった蒸気機関車を中心に、興味の対象を大きく広げてくれました。

 2120形(2100)、6200形(6250)、1070形(1150)、4110形、6760形、そしてC51、C53、C54など、写真や図面でしか見ることはできなくても、どの型式も子供の私にとってそのすばらしい造形美は自分の目をくぎづけにしました。

 逆に、近代的な形態のC57、C58、C59、C60、C61、C62、D51、D52、D61、D62にはあまり興味はわきませんでした。それは今でも変わることはなく、形態的に整った近代的なスタイルの蒸気機関車には、色気を感じないのが要因のようです。

 ところで、鉄道好きの方たちは、一番好きな車両ナンバーを特定していることが多いと聞きます。ちなみに、私はC5557が最も好きな鉄道車両です。この車両は他のC55とは別次元のような特別な存在感を子供ながらに心に刻んだ車両です。自転車で汽車を見に行ったり、客車列車に乗ったとき、C5557が牽引して来たときは最高にうれしかったものです。

 この頃になると、私の描く絵という絵のほとんどが、学校の図画工作、ちょっとした落書きなど、どれも区別無く鉄道に関するものになってしまっていました。

自転車を使っての汽車見とC55の魅力

 自転車で、あちこちに遠乗りを始めてからは、鹿児島本線の折尾−東折尾の西鉄電車と併走する区間や筑豊本線の筑前垣生駅、筑豊本線の折尾近くの鹿児島本線短絡線との分岐付近に汽車を見に出かけるようになりました。お目当てはC5557で、一日ねばっても来なかった時はがっかりして帰宅したものでした。

 当時のC55の印象としては、スポーク動輪に角張った煙室先端、蒸気だめと砂箱もずんぐりしているなど、細かいところに古めかしさを感じたものです。新しいのか古いのかよくわからない、そんな妙なアンバランスなC55に、なんとも言えない魅力を感じたことを覚えています。

C55とリンゲルマン濃煙板

 若松機関区のC55は、宮崎からの転属組を含めて、それぞれが独特の形状をした切り取りデフを持っていましたが、それと同じくらいにリンゲルマン濃煙板に興味をもっていました。

 リンゲルマン濃煙板は、鉄道ファン誌等で名称を知るまでは自己流に、“チョッカイ”と呼んでいました。これは、通常は、デフのステーや、またはデフなしの場合は煙突の近くに差し込み用の突起を取り付けていたのですが、一番のお気に入りだったC5557はそれを煙突に取り付けていたことから、そのように呼んだものです。

 もっとも、その後は取り付け位置の違いにかかわらず、全てのリンゲルマン濃煙板のことを“チョッカイ”と呼ぶようになりましたが、その取り付け方はバラエティーに富んでいて、その取り付け位置などにずいぶんと興味を持ったものです。

 長めのストレート煙突の場合は、C5557のようにやや外側に傾いた状態で煙突に取り付けられているものが最高でした。

 余談ですが、“チョッカイ”という表現に似たものに“デブチョン”なるものがありました。これは421系近郊型電車の低窓車(A1〜A8編成)までのことを指していたのですが、高運転台のA9〜F53編成と比較して、正面から見た印象が、子供ながらにそのような表現を作り出したもので、今思い出すと吹き出してしまいそうです。子供には、このような大人から見ると理解しがたい表現力?のようなものがあるのかもしれません。

母の大ひんしゅく

 昭和43年10月のダイヤ改正の頃には、若松のC55もメンバーが入れ替わり、C55で初めて見る標準デフのC5519が走り始めました。標準デフのC5519は、それまで切り取りデフしか見たことのなかった私にとって、強い印象を受けました。

 この頃には、日豊本線北部はすでに421系や423系電車の独擅場になっていました。ほとんどが電車化されたものの、何本かはED76牽引の客車列車が残っていました。中にはED76にDF50が連結された列車もありましたので、好んでそれを利用しました。

 しかし、夏場に扇風機の付いていないオハフ33を選ぶと、母の大ひんしゅくを買ったものでした。その上、黒崎−小倉間も筑豊本線から乗り入れてくるC55牽引列車をわざわざ選んでいましたので、特に、母の実家の日豊本線中津まで行く場合は、黒崎−中津間の全区間がオハフ33やオハフ61ということになってしまい、母の不満はただものではなかったと思います。

 何しろ高度成長経済のまっただ中で、生活水準が劇的に改善されていった時代に、扇風機の付いたスピードの速い421系電車には目もくれず、わずかに残った戦前や戦後まもないころとほとんど同じような、扇風機なし白熱灯の車両を選んで乗っていたのですから、鉄道に興味のない母には無理もないことだったと思います。

中津の印象(神社での汽車見とアーケード街)

 中津には母の実家がありましたので、よく行きました。特に、夏休みと冬休みはその半分を中津で過ごしました。小倉から中津までは変化の少ない平坦線なので、あまりおもしろい区間ではなかったのですが、それでも、電化工事と複線化工事はその進捗状況を目の当たりにして楽しかったものです。

 日豊本線は架線を吊るコンクリートポールの通信線の碍子が上向きに取り付けられていたのが、鹿児島本線のそれと違っていて、そんなところにも興味を持ったものです。

 この区間の電化に対しては、どちらかというと早く完成してほしいと思っていましたので、工事の進展を見るたびにわくわくしていました。母の意向で、できるだけC57やC50牽引の列車は避けていましたから、電化で、ばい煙が車内に入ってこなくなることへの期待があったのかもしれません。

 中津での汽車見は、物心ついた頃には日課になっていました。子供の足で5分も歩けば汽車見ができるところに母の実家がありましたから、それはたいへんうれしかったものです。

 現在も残っていますが、中津駅から大分方向に数百メートル行ったところに神社があるのですが、ここがその場所でした。ちょうど大分交通耶馬渓線と日豊本線が分かれるところに位置していて、神社は日豊本線と耶馬渓線にはさまれる形で存在していました。

 当時の日豊本線は列車本数は多くはなかったのですが、日豊本線は踏切の警報機の音で、耶馬渓線は中津到着分だけですが、中津駅進入のための腕木信号が「ガシャン」という音とともに倒れる音を聞いて、列車の接近を知ったものです。

 列車が来ないときは神社の境内の木に登ったり、夏はセミを捕ったりしていました。

 中津駅の北東側にはデパートなどがありましたから、時々祖母と買い物をかねて行きました。途中、駅裏の大分交通耶馬渓線の車庫の敷地を歩いていくのですが、いよいよ中津駅構内の北側のはずれにさしかかると、北を向いて左側、駅から見て北西側にカーブしていく引き込み線がありました。この引き込み線は小さな小川を渡り、その先は工場だったと思います。

 この付近の駅構内には、日豊本線を渡る警報機の無い小さな踏切があり、その踏切はすぐにアーケードの裏側に達し、路地を入ってアーケード街に合流していました。

 このあたりのアーケードや家並み、線路や踏切などの光景は、戦後間もない頃の様子を彷彿させるもので、特に中津駅を小倉方向に出発して最初の大通りを渡る踏切の前後までの区間は、アーケード街の裏側の店舗兼住宅の脇をすれすれに通っていましたから、列車の窓越しに、ちゃぶ台を囲ってテレビを見ている家族の様子などが、目の前に展開しました。

 現在、このような光景を体験できるところは、どのくらいあるのでしょうか。時々古い映画でこれに似た光景を見たとき、なにか忘れてしまっていたふる里のにおいを思い起こします。

 一方、駅の南西側には、母の実家のすぐ近くまで製材所のトロッコ線路が網の目のように走り、一部は道路を横切る等、私にとって何とも楽しげな広大な敷地を持ったエリアでした。その工場の木材の放つ独特の香りとともに、今でもそれらの光景が匂いを伴ってよみがえってきます。

 現在の中津駅は高架化され、また、駅周辺の町並みも再開発によって、どこの地方都市にでも見られるような画一的で情緒のないものになっています。もちろん当時の痕跡は跡形もなく、まるで別の町に来たかのようです。

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大分交通耶馬渓線

 大分交通耶馬渓線は私にとって、とてもミステリアスな鉄道でした。祖母と町まで買い物に出かけるときは中津駅の駅裏を歩くのですが、そこは大分交通の敷地内で、留置しているオープンデッキの客車に乗ったりして遊びながら行ったものです。ほとんどの車両は当時の国鉄線では見ることのできない変わった形態をしていて、ボギー車もあれば、貨車のような2軸車もあるし、片側だけ2軸台車でもう片方は貨車のように1軸というのもありました。

 これらの客車の多くは昼間は動いていなかったのですが、夕方になるとロッド付きのディーゼル機関車に引かれて、かなり長いでこぼこの編成で、多くのお客さんを乗せて中津を出発して行きました。

 車庫の中には小型の蒸気機関車がいたのですが、車庫のガラス窓の位置が高く身長の低い子供の頃のことでしたから、何度もジャンプして見たものです。

 終点の守実温泉へは一度だけしか行きませんでしたが、羅漢寺や洞門にはよく行きました。キハ10に似たディーゼルカーはごく普通でしたが、それ以外のディーゼルカーはハンドルの無いバスのような車両で、運転の様子を興味深く見たものです。

 また、ディーゼルカーは2軸の客車を従えることがあったのですが、この客車は、夏にはそのドア(引き戸だったと思います)を開けて走ったように憶えています。この貨車のような客車に乗ったときは、子供ながらにドアから転げ落ちやしないかと恐怖でした。

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幸崎電化

 日豊本線幸崎電化は、中津の神社での汽車見をがらりと変えました。581系寝台電車の登場は、私にとって強烈すぎるインパクトがありました。

 電化開業翌年の夏休みは、この寝台電車581系を見るために、毎日のように神社に行きました。ちょうど神社にセミの幼虫を取りに行く夕刻と重なっていたのですが、大分行き特急「みどり」が来る時刻になると、セミの幼虫取りは中断して独特のスタイルで圧倒的な大きさの車体断面の581系電車に見入ったものです。

 幸崎電化においては、中津以南は中津以北以上にインパクトがありました。中津以北でも新田原−築城間のように別線ルートに切り替わったところがありましたが、当時は大きく迂回するようにつくられていた工事中の新線を、旧線を走る列車から遠くにながめながら、なぜ遠回りするのだろうかと疑問に思っていました。

 中津以南、特に宇佐から大分方面は新線や新トンネルがあちこちで作られましたから、この区間は特に興味を引きつけられました。

 頻繁にこの区間を通っていたわけではないのですが、中津から別府高崎山、ラクテンチ、マリーンパレスなどに遊びに行くときは、目を皿のようにして工事の進捗に見入ったものです。

 特に関心があったのは大川司信号所と杵築間の新線が旧線をアンダークロスするところで、はじめは切り替えではなく複線化のための増線工事と思い込んでいましたから、上下線がクロスするこのめずらしい光景には、ひときわ注目したものです。しかし、実際は切り替えのための新線建設で、旧線の使用が停止されたことを知ったときはがっかりしました。

 他には関心を引きつけたのは、新立石トンネルでした。西屋敷側の工事中の様子を現在の上り線を走る列車から見ながら、一直線に山へ向かうさまを見て、早く完成して列車でトンネルを通ってみたいと思ったものです。トンネル完成は電化に先がけてだったと思いますが、しばらくはトンネル手前の西屋敷あたりにさしかかると、車掌によるトンネルの説明が車内放送されていたのが印象に残っています。

 その他にも、亀川の北側のトンネルや中山香の南側のトンネルのように、複線化工事と思い込んでいたところが、実は新線切り替えの工事だったということがトンネル開通後でわかって、ずいぶん勝手な思い込みをしていたものだとつくづく感じたものです。たぶん架線を張るための高さが足りなかったとか老朽化などの理由で新トンネルを作ったのでしょう。そんなことが理解できなかった子供の頃の話です。

【日豊本線幸崎電化後の大分以北へのDF50と電化複線化の記憶(補遺)】

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山陰本線での踏切事故とおまけの人生

 この出来事は私にとって最大の事件であり、また、自分は「なぜこの世に生かされているのか」、ということを考えさせられる原点でもあります。

 それは、昭和45年3月30日、月曜日に起こりました。

 その日は朝から薄日の射す曇り空で、次第に雲が厚くなっていくという、少しあやしい天気でした。私はかねてから計画していた山陰本線上り下関発京都行きDF50牽引826普通列車に乗るため、当時住んでいた最寄り駅の鹿児島本線黒崎から山陰本線東萩・益田、山口線津和野を経由し、山陽本線小郡・宇部・下関を経て再び黒崎に戻るという周遊の行程を組み、早朝に父と弟と3人で出発しました。

 事故はその行程の前半で起こりました。

 午前9時42分ごろ、私たちの乗った7両編成のDF50510牽引普通列車は、山陰本線小串駅手前数百メートルの川棚踏切にさしかかったところ、警報機を無視して突っ込んできたコンクリートミキサー車と衝突してしまったのです。

 客車は前2両が転覆、次の2両が脱線し、車体の重いDF50510は客車から少し前方へ行ったところでようやく止まるという、大惨事になってしまいました。

 この事故で、乗客4人とコンクリートミキサー車の運転手の計5人が死亡し、転覆した客車の下敷きになった乗客に多くの負傷者が出ました。

 当時、私はあと2ヶ月弱で11才で、毎年3月30日が近づくと同じ車両に乗り合わせたカンカン部隊の行商のおばさんたちや事故現場のこと、そしてその時の鉄やアスファルトが焼けるような臭い、衝突時の脱線転覆による今まで経験したことのない急減速、停車直後、貫通路を通して前方から目に飛び込んできたあるべき前位の客車のかわりに空が見えた異様な光景、などが脳裏によみがえってきます。事故の直前までいっしょに乗り合わせて話しをしたカンカン部隊の行商のおばさんたちの顔が、今でも頭から離れません。

 実は、事故が発生する少し手前の梅ヶ峠駅を過ぎた辺りまでは、父と弟といっしょに、いつものように先頭の客車のそのまた前列の右側のボックスに陣取って、大きく開けた窓に腕を組み、その腕にあごをのせて顔半分を窓から出した状態でDF50510のサウンドを聴きながら外を眺めていました。ところが、事故現場の少し前あたりから一緒にいた父の胸騒ぎで、何の抵抗もなく父の言うままに2両目に下がり、さらに3両目に下がり、とうとう普段は乗ることのない4両目まで下がったのでした。

 通常、機関車好きの私や弟にとって、1両目前列のお気に入りのボックスを手放すはずはなく、まして4両目などに移動することなど、とうてい考えられないことなのですが、この日ばかりは、何の抵抗もせず父の言うことに従っていました。

 たしかに、1両目はカンカン部隊専用車両とまではいかないものの、行商のおばさんたちが大勢いて、おばさんたちも後ろの車両に移った方がいいとは言っていましたが、通常そんなことで後ろに下がるような私ではないので、この時の行動は今でも不思議でなりません。

 もし父に従わず、そのまま1両目に乗り続けていれば、1両目の客車の私たちが座っていたあたりは、衝突の衝撃でえぐられていましたから、たぶん直撃を受けて死んでいたと思います。

 コンクリートミキサー車が、どういう角度で列車と衝突したのか、現場の様子からははっきり分かりませんでした。と言うのも、DF50510は前面助手席側の窓から下に破損が見られたものの、ここにまともに衝突した様子でもなく、その後ろの助手席ドアあたりから後方側の側面が大きくへこみ、水などの液体が勢いよく線路に流れ落ちていました。この水はSG用水タンクの破損から生じたものだと思いますが、この様子から、コンクリートミキサー車はDF50510の側面に体当たりした、当時はそんな印象を持っていました。

 それに比べて客車は転覆し、側面に穴があくなど数カ所でえぐられたような状況でした。また、砂利混じりの生コンクリートが、客車にまき散らしたように付着していました。

 一方、コンクリートミキサー車のボール状のミキサー部分は大破して、3両目の客車の先頭あたりに転がっていましたし、コンクリートミキサー車の車体部分は原形をとどめないくらい潰れて、踏切のすぐ脇にありました。4両目に移った私たちの座っていた目の前にその潰れた車体がありましたが、まだところどころ湯気が立ち上るその残骸に、駆けつけてきた近所の人たちが、幾重にも折りたたまれた鉄板をバールなどでこじ開けようとしましたが、閉じこめられたコンクリートミキサー車の運転手はなかなか出せませんでした。

 不幸中の幸いというわけではありませんが、この列車は機関車牽引列車でしたので先頭車両には乗客は乗らず、実質2両め以降が客車でした。しかし、もし機関車牽引ではなくディーゼルカーだったら客席のある1両目にコンクリートミキサー車がもろに突っ込んでくる形になっていましたので、もっと多くの犠牲者が出ていたと思います。

 後日、大分県中津の祖母から、事故前夜、田植えの夢を見て心配していたことを聞かされました。祖母によると、中津では田植えの季節でもないのに田植えの夢を見ると、親族に不幸があると言われているらしく、本来なら私はこの事故で父や弟とともに一生を終えることになっていたのかもしれません。

 当時のことを振り返ってみますと、あらためてあのときの行動が不思議でなりません。そして、今、自分が生かされているという事実はおまけの人生のような気がします。

 もっとも、父は第二次大戦で、自分の脇で戦友が次々に被弾して死んでいく有り様を経験したうえに、ソ連の捕虜に捕らわれてシベリアから東ヨーロッパを連れ回されましたので、何度も死に直面した経験を持っていますから、それからすれば小さなことかも知れません。

 しかし、自分が今現在この世に生きているのは、これから命に危険をもたらすことになる空間から遠ざけてくれた父のおかげだということは、紛れもない事実です。また、だからこそ、父のためにも犠牲になったカンカン部隊のおばさんたちのためにも、悔いのない人生を全うする義務があると思っています。そして、決して命を粗末にしてはならないということだけは、心に命じなければならないと思っています。

 既に、あれから多くの年月の経った過去のことなのですが、あのときのせい惨な光景や周囲に漂う臭いは、昨日のことのように鮮明に思い起こされます。一生忘れることのできない出来事です。

 余談ですが、この事故の後、恐怖心から、しばらくは列車の編成の前方に乗ることができませんでした。また、鉄やアスファルトが焼ける臭いなど、当時を思い起こさせるものに接すると気分が悪くなったものです。

 なお、DF50510は事故後修復され、昭和50年3月まで米子機関区で活躍し、その後高松機関区に転属し、翌年の昭和51年4月に廃車になりました。

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DF50とED72量産型

 お気に入りの蒸気機関車が数を減らしていく様子を目の当たりにして、次第にED76やDD51、DE10、さかのぼれば、筑豊のC55を追いやったC57やD51にまで、なんとも言えないやるせない気持ちを感じるようになりました。

 しかし、DF50やED72にはそのような感情は全く持ちませんでした。たぶん、物心ついた時には蒸気機関車を追い出した後だったので、私にとっては仲良く共存しているように見えたからだと思います。

 後年、大分のDF50が宮崎に転属し、そのあおりで南九州の蒸気機関車を壊滅状態に追い込んだのも、DF50が直接の原因ではなく、DF50を大分から追い出したED76が原因なのだと自分自身に言い聞かせていました。

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DF50の印象

 DF50はその独特の外見やエンジン音、そして過給器音、また、大分のDF50はロングランが多かったためか薄汚れてすすけた車体のおどろおどろしい不気味な様相は、私にとっては強烈なインパクトでした。

 特に、昭和41年の春休みに家族で宮崎に旅行に出かけた際、小倉から乗車したDF50牽引の夜行寝台普通列車は初めての夜行列車であり、同時に初めての寝台車ということもあって、大興奮で結局一睡もできませんでした。

 小学校に入学する直前だった私には、小倉駅に停車していたDF50のモニタ屋根の窓から漏れる怪しげな黄色い光、そして走行中に伝わってくる笛を吹くような悲しげなDF50の過給器の音は、一晩中私に不気味な刺激を与え続け、とうとう宮崎まで起きている羽目になってしまいました。

 この時、この恐怖心に拍車をかけたのが、当時テレビ放映されていた「ウルトラQ」というSF番組で、モンスター(M1号という怪物)が超特急を乗っ取って北九州に突っ込むという話が現実と混同してしまい、DF50はM1号が運転しているのではないかと不安で寝台車のベットの中で毛布を頭からかぶって、早く朝が来ないかとびくびくしていました。

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ED72の印象

 一方、ED72の量産型には、スマートで優雅な印象を持っていました。電気機関車の中では最も美しいと感じていました。

 これも後で気がついたことですが、中間台車が直線的で車輪がスポークなところ、車体側面のフィルターも直線的で小振りで、あかり取り窓もHゴム支持ではない、2800mmのロングホイールベースの台車も形態的にはED76等とは趣が異なるなど、各部のさまざまなところに、新しいけれどどこか古さを感じさせるところがC55に似ていて、そこに魅力を感じていたのかもしれません。

 同じような印象はEF61にも持っていましたから、直流機ではEF61が好きでした。

 いずれにしても、北九州電化のパイオニアED72の量産型が、山陰や日豊でなじみの深かったDF50 500番台同様、一両も保存されなかったのは、何とも残念です。

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魅力ある車両の終焉

 昭和46年も春を過ぎると、筑豊本線のC55に異変が起き始めました。それは、C57がC55の運用に混じるようになったことです。検査か何かの理由で臨時的なものであって、検査が終わればまたC55が復帰するなどと、しばらくは子供ながらの勝手な解釈をしていたのですが、夏になってもいっこうにC55に戻らないばかりか、新たに集煙装置の付いた不恰好なC57まで加わり、あげくの果てにはD51になったりと、秋になってようやく筑豊のC55の終焉、すなわちC55は52番と57番を残してすべて廃車という現実を認識させられました。

 まさか、C55が走らなくなるなどとは夢にも思っていませんでしたから、そのショックは強烈でした。

 もっとも、ピンチヒッターのC57三両のうちC5753は大分からの転入車で、正面ナンバープレートの取り付け位置も程良く、リンゲルマン濃煙板付きのきれいな外見でしたので、それなりに興味は持ったのですが、この機関車はあまり調子がよくなかったのか、筑豊での活躍はごく僅かだったようです。

 私も、小雨の降る中、黒崎から小倉まで乗ったことがあるのですが、各駅で発車時に激しく空転し、特に枝光発車は少し上り勾配になっているためか、大空転でなかなか速度が出ず、小倉到着が遅れました。小倉発車をホームから見たのですが、激しく空転してなかなか前に進まない様は、かわいそうでもありました。

 他には、C57170のインゼクタ音でしょうか。この機関車はインゼクタ音が豪快に鳴り響くので、この点に関してだけは興味を持ちました。

 午前10時ごろに飯塚を始発とする原田行きの普通列車があったのですが、この列車は飯塚発ということもあってお客さんが少なく、一両目に誰も乗客がいない時は、冷水トンネルではほとんどすべての窓をあけて車内を煙で充満させて楽しんだものですが、ある時C57170牽引のこの列車に乗車したとき、「ヒューン、ヒューン」と歯切れよく大きな音を出してのインゼクタの音はなかなか聞き応えがあったものです。

 しかし、ピンチヒッターC57の活躍も少しの期間だけで、結局は大半をD51にバトンタッチし、翌年の春にはC5552とC5557は吉松に転属、C5752は廃車、という結果になってしまいました。そして、そのD51ですら、やがて冷水を越えなくなりました。

 写真を撮り始めたのはようやくこのころで、筑豊からパシフィックが消えた直後でした。

 そんなわけで、写真に記録した蒸気機関車はわずかしかなく、ほとんどは記憶とともに脳裏に焼き付いた光景です。

 蒸気機関車が消え、また、その蒸気機関車とともに活躍した近代化のパイオニア達も消えてからは、鉄道車両に対する興味は次第に薄れていきました。

 写真撮影は飯田線のクモハ54などの旧型電車を最後に、録音は紀勢本線のEF58やキハ58急行「きのくに」を最後にやめてしまいました。

 今では、以前なじみのあった場所への再訪、または身近な鉄道や鉄道を含む街の様子の変化などをスナップする程度で、それでもカメラを持っていくことは希です。

 もう、魅力ある車両がいたころのような、わくわくする衝動に駆られることはないと思います。

 それでも、線路があれば意識的に目線を移し、また、列車が走ってくれば振り返り、レールの継ぎ目を刻む音が聞こえてくれば、その方向に耳をそばだてるのは、一生涯続くようです。

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C5553とC5546のふしぎ

 現在、大分市の若草公園に保存されているC55は、車体はC5546です。この疑問は、ディーゼル機関車に連結されたC5553のナンバープレートを付けたピカピカのC5546を見た昭和47年から始まり、私にとってのミステリーの一つでした。

 C5546の廃車体は、昭和46年12月28日、黒崎から中津の親せき宅へ行く際に、鹿児島本線と日豊本線が分岐するあたりの日豊本線側の側線で確認しています。

 この場所は、廃車になった車両を一時留置するために使われていましたので、ここを通るときは必ず注意して見ていたものです。

 年が明けて、昭和47年4月2日、黒崎から中津の親せき宅に行く際に、今度は日豊本線の現在の西小倉駅(当時は旧小倉駅跡)で、ディーゼル機関車に連結されたピカピカのC5546を、鹿児島本線の上り電車から発見しました。

 遠目にはその姿かたちからC5546と断定できましたので、あえてナンバープレートには目を運ばず、いずれ小倉駅到着後、日豊本線の電車に乗り換えて、またすぐそばを通るので、その時あらためてナンバープレートを見るつもりでした。

 ところが、日豊本線の電車から見てびっくり。なんとC5553のナンバープレートが取り付けられていたのです。同時に、煙室扉ハンドルが、梅小路保存用D50140やC11190と同様のタイプに交換されていました。この時は、その外見から保存されることが子供ながらに推測できたのですが、どこに保存されるのかなどは全く知りませんでした。

 実際に、保存先を知り、大分市の若草公園に現車を見に行ったのは、この珍事からさらに1年以上経った昭和48年8月です。現車を目の前にして、どこをどう見ても、まぎれもないC5546であることは確かでした。

 ナンバープレート以外にも、C5546には無かったはずの製造銘板が取り付けられていましたから、この時点で、これは保存時に車両を取り違えたのではなく、認識したうえでの措置だと確信しました。

 それから25年後、若草公園の大規模な改修工事で、C55も修復整備が行われたのをきっかけに再びこの疑問が再燃し、その理由を知るために鉄道友の会九州支部の方に伺ったところ、その方も保存当初から同様の疑問を持っておられたとのことで、近くレポートにまとめて鉄道友の会の会報に発表されるご予定とのことでした。(鉄道友の会の会報「RAIL FAN No.559 1999年6月号 24ページと25ページ)

 理由はそのレポートにもあるのですが、推測の域を出ないものの、たぶんC5553が大分機関区生え抜き車であることから、大分市が強く希望したものの、その時点ですでにC5553は解体されてしまっていたため、このような措置がとられた、と考えるのが妥当かと思われます。

 SLブームのさなか、各地の自治体で蒸気機関車の静態保存が盛んに行われ始めたのがこのころでしたが、一部の自治体が、地元で活躍した車両とは縁もゆかりもない車両を保存したのに対して、この大分市のこだわりには敬服する次第です。

 とは言え、C5546も大分機関区に在籍していたわけですから、番号のすげ替えはいささか行きすぎの感も否めません。しかし、この措置を事実は事実としてとらえた上で、あくまでも、当時の国鉄からは公式にC5553として貸与されていますので、通常はC5553とし、実は現車はC5546と表現すべきだと思います。

 これは、鉄道友の会の会報にレポートされた方のお考えですが、私もまったく同様の考えで、公式の話と実際の話を分けて考えないと、混乱を招いたり、迷惑をかけたりする恐れがあるからです。

 ところで、話はC5553に戻りますが、同機は速度計装置をC55標準型のオリジナルである第三動輪ではなく、従輪から取っていた、という特徴がありました。速度検知を従輪から取るのがオリジナルでも、それを動輪側に改造することは空転を検知するためにも有効なので、ときどき見られたようですが、逆のケースは珍しいと思います。

 なお、従輪で速度検知を行う場合は、空転に左右されない、タイヤの摩耗による経年変化が少ない、というメリットがあるそうで、どちらが良いとも言えないようです。

 外見から見た場合、本来のC5553は煙突が細めで長く見え、また正面ナンバープレートの取り付け位置が高く、一見、育ちの良い端整な貴公子のような顔つきでしたので、それに比べてナンバープレートの取り付け位置が低く、門デフの面積が大きく、煙突が前に傾いていてやや短く感じるなど、いかつくやぼったい感のあったC5546は、C5553の印象から大きくかけ離れていました。そのためか、C5546の車体に取り付けられたC5553の番号を見るとき、「何かイメージが狂ってしまう」、そんな印象を受けます。

 一方、C5546の立場から見れば、ナンバープレートと製造銘板をすげ替えられ、自分自身を名乗れなくなってしまった数奇な運命をたどったカマ、と言えるかもしれません。

 当時は会計検査院の意向で、全検の手配まで完了していたC5551とC5553がキャンセルになり、その代わりの代替機が他機関区からやって来ましたが、その少し前にC5552とC5557の全検入場が実施されたことは、何か運命のいたずらのように思えます。

 そして、周知の通り、運良く全検を受けることができたC5552とC5557は、昭和50年の九州でのSLの最後まで生き残りました。

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C5557の解体

 鉄道に関連することで何が一番残念かと問われれば、C5557の解体以上のものはありません。C5557が解体されるとは夢にも思わず、くやしくて残念でなりません。

 最後まで残った南九州のパシフィック機5両のうち、唯一保存されなかった機関車がC5557、という事実は、今でも納得がいきません。

 私は、昭和50年3月23日のさよなら列車運転の日の朝、最後の出発の点検を受けるC5557を鹿児島機関区に訪ねたのですが、そこでも機関区の職員の方から、「保存します」の力強いお言葉を頂き安心していました。

 この日はさよなら列車の運転終了後、宮崎から西鹿児島へ12系客車を回送するためC5557がその運用についたのですが(次位のC57175は宮崎に残りました。これが運命の別れ目だったのかもしれません)、この列車の発車を夕闇の迫る宮崎駅で撮影し、すぐに後発の列車で追いかけました。途中、この回送列車を追い抜き西鹿児島へは先回りしてC5557の到着を待ちました。

 そして、西鹿児島到着後の小入れ換え作業を見とどけ、それが私にとってC5557との永遠の別れになってしまったのです。

 何番ホームだったか覚えていませんが、12系客車の入れ換え作業が終わって鹿児島へ向けて発車を待つ少しの間、石炭をくべさせてもらいました。次駅の鹿児島到着後、永遠の眠りにつくので、腹一杯石炭を食べる必要はないのですが、いくつかを火室に入れました。

 この時の西鹿児島駅は、昼間のさよなら列車や宮崎機関区での撮影会が嘘なくらい、ファンの数は数えるくらいしかおらず、寂しさに一層拍車をかける光景でした。博多までの帰りの列車が、23時17分発の「かいもん51号」でしたから、かなり夜も遅くなっていたことがファンの少なさの要因だったかも知れませんが、C5557の最後にしては寂しい光景でした。

 そして、やがてC5557は出発の合図と共に最後の汽笛を鳴らし、生涯を閉じる地となる鹿児島に向けて、単機バック運転で発車していきました。

 この時の闇の中に吸い込まれていくように消えていったC5557の先頭部分の姿が、今でも私の脳裏から離れません。これがC5557にとって永遠の眠りにつく最後の運転であり、私にとっての永遠の別れになったのです。

 思えばC5557は昭和40年代前半に、はじめて車両の番号を個別に認識した最初の機関車でした。同時に一番好きな鉄道車両でもありました。

 子供のころの自転車での汽車見も、C5557が目当てだったような、まさに「C5557命」というくらい入れ込んでいました。

 C5557の廃車後、私は保存のニュースを毎月のように鉄道雑誌に探したのですが、昭和51年になり、昭和52年になり、そして昭和53年になってもいっこうにC5557の保存のニュースは見つけられませんでした。私はまだこの段階でも保存を信じていましたから、もしかしたら個人の方が購入し、ひっそりと大事に保存しているのではないかと思い込むようになりました。

 C5557の解体の事実を知ったのは、さよなら列車の運転から十数年が過ぎたころでした。数日は気が抜けた状態でしたが、しかし、それでも解体の証拠をこの目で確かめたわけではありませんでしたので、事実をなかなか受け入れられませんでした。

 ところが、21世紀になり、C5557の主動輪一対を間近で見る機会がありました。これで、初めてこの目で解体の証拠を確かめ、ようやく事実を受け入れられるようになりました。その繊細で優雅な水かき付きスポーク動輪には、はっきりと「C5557」の刻印がありました。

 これをもって、ようやく、私の長年に及ぶC5557に関する「もやもや」に決着がつきました。

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鉄道通学と教室から見える列車

 鉄道通学は子供の頃からのあこがれでした。小学校の時、他のクラスの生徒に他学区に引っ越したものの、そのまま転校せずに通い続けた生徒がいたのですが、その時、筑豊電鉄の永犬丸電停まで電車通学しているのをうらやましく思ったものです。

 中学2年の夏に福岡市の香椎に転居した時、中学校が香椎花園の近くにあり、自宅近くの西鉄宮地岳線香椎宮前から香椎花園前までの二駅間を電車通学できると期待したのですが、実際には徒歩通学ということで、ちょっとがっかりしました。

 それでも、雪の積もった日や風雨の強い日、体調の良くない日などは電車で通学しましたし、少し小遣いに余裕があるときなどは、下校時に電車を使いました。

 当時の西鉄宮地岳線は、まるで電車博物館のようで、魅力の無い電車は皆無、というような今では考えられない環境でした。特に朝の通勤通学時は、モハ+クハやそれにもう1両モハをつないだ3両編成が走っていましたが、電動車は21番〜24番を除いては手動ドアだったと思いまが、その時は、車掌がホームに降りてとなりの車両のドアを開け閉めをする光景が各駅で見られました。

 番号別では1番、11番、18番がお気に入りでした。また、自動ドアながら22番も好きでした。特に21番から24番までの4両は加速がよく、また22番は国鉄80系湘南電車のような、高速域での釣り掛けモーター独特のかすれ音が聴き取れました。

 高校は鹿児島本線の東郷でしたから、このときは無条件で、香椎−東郷間を電車通学しました。

 高校は、東郷駅から歩いて15分のところにあるのですが、鹿児島本線のすぐ脇の道路が通学路でしたから、行き交う列車を見ながらの登下校でした。

 ELはED72、ED73を中心に、ED76、ED75300番、それとたまに鹿児島機関区のED76もやってきてバラエティーに富んでいました。

 ECは581系583系、481系485系、475系457系、421系423系、415系、DCは58系28系、82系、それに島原鉄道乗り入れ車といったぐあいでした。

 中でも、高校1年の時は、教室が鹿児島本線側の校舎でしたので、席決め時は窓側を確保し、ほぼ一日中教室から列車をながめていたものです。

 また、日暮れの遅くなる季節は、時々カメラを持って行き、学校帰りに写真を撮ってから帰宅したものです。

 特に、東郷から先の福間側には大きなカーブがあり、そこはちょとした撮影地として知られていましたから、「学校帰りにちょっと撮影」と、しゃれ込んだものです。

 下校は通常、東郷を16時08分に発車する快速を利用していましたが、この列車はよく421系の初期型、編成で言えばA1からA13までの車両が充てられることが多く、特にA1やA2などの低窓車は直線の高速走行で、細かく激しいジグザグ走行を起こしていましたので、脱線の恐怖とスリルいっぱいの快速電車でした。

 この快速電車で下校した時は、香椎で下車したらすぐ後を門司機関区のED76の引く荷物列車が追いかけてきて、香椎通過後は、今度は香椎線から発車していくED72またはED73の引く上りの自動車専用貨物列車(空車)を見ることができましたから、いつも自動車専用貨物列車の発車を見とどけてから駅の改札口を出ました。

 大学も鹿児島本線のすぐ脇にありましたので、通学は鹿児島本線のすぐ脇の道を徒歩か自転車で通っていましたから、今思い起こすと香椎に転居してからは常に鉄道に接していたことになります。

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SLファンはいづこに

 あれだけ多くいたSLファンは、いったいどこへ行ってしまったのだろうか、という疑問はいつも持っていました。

 特に1975年の夏は、国鉄蒸気機関車にとって最後の夏になるためか、多くのSLファンが道央を訪れていました。その時の私の印象は、確かにファン同士のトラブルも一部ではあったと思いますが、私にはすぐに仲間同士になれた記憶の方が強く残っています。

 当時、ファンの集まる駅はたいてい夜は寝袋にくるまっての野宿の場、および情報交換の場だったのですが、室蘭本線栗丘駅においても、ここでの野宿を「栗丘グランドステーションホテル」と呼んで、みんな和気あいあいとしていました。

 当時のメモからも、私は1975年8月14日に「栗丘グランドステーションホテル」で寝袋にくるまったのですが、立川や川崎、京都、それに東北弁が印象的な秋田から来られたファンの方たちといっしょに過ごしました。(私は北九州生まれの北九州育ちなので、博多弁が使えず、ちょっとさみしい思いをしましたが)

 赤飯やトマトなどをもらったり、また、目の前を一晩中蒸気機関車が行き交う線区でしたから、夜中にその中のどなたかが目を覚まし「あ、デゴイチが走ってる」と寝ぼけまなこで叫んでいた記憶があります。

 翌15日は再び川崎と京都から来られた方と会いましたが、たまには風呂と布団で心身をリフレッシュするため、その日はウトナイ湖ユースホステルにいっしょに宿泊しました。

 しかし、ウトナイ湖ユースホステルはきびしかったです。翌朝の清掃と整理整頓が、私のグループではなかなか合格せず、やり直しに時間が割かれ、ユースホステルを出発したのが遅くなって、結局、写真撮影に取りかかれたのはずいぶんと太陽が高くなってからでした。

 これらは、今では体験できない貴重なものですが、ファン同士のいざこざなどの無い楽しい時間でした。

 余談ですが、最後に現役国鉄蒸気機関車を見たのは、それから2日後の1975年8月16日、帰途につくため札幌から乗車した函館行き急行「すずらん52号」が東室蘭駅にさしかかった時で、機関車の番号はD51444でした。

 蒸気機関車が消え、私はそれからしばらくは、その次に消える運命にあったDF50やDD54、DD13、そしてED72、ED73、ED74、EF58、EF61、ゲタ電や80系湘南電車、キハ10、キハ17などの写真を撮り続けたのですが、もう蒸気機関車がいた頃のような、そんなファンとは会うことはありませんでした。

 ところが2000年9月、30年ぶりに筑豊本線の勝野駅に降り立ったところ、電化工事前の最後の光景を撮影していた方にお会いし、その方が筑豊本線のC51時代からのファンだと知って驚いたものです。昭和14年のお生まれとのことでしたので、筑豊本線はC51の時代を経験されてきたわけで、話がはずみ、とうとう撮影そっちのけでC5552はデフがどうだったとか、SL末期はサービスで黒煙を吐いていたのでリンゲルマン濃煙板はあまり意味をなさなかったとか、久しぶりに蒸気機関車のマニアックな話にどっぷりと浸かってしまいました。

 また、その際、直方在住で汽車倶楽部の代表をされている方が、59647をJR九州から借り受けて大事に保存しているという話を聞きました。

 実は、この話は、1999年11月と12月に地元のテレビ局で取り上げられていましたので、気にはなっていたのですが、やはりSLを忘れていないSL現役時代からのファンはまだまだ健在なんだ、ということを改めて実感させられたものでした。

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汽車倶楽部のこと

 その後、10月に入って、ひょんなことから汽車倶楽部の代表をされている方を知っているという方に、西鉄折尾駅から少し離れた金山川の近くで知り合い、その足でその方に連れられて59647を見学しました。

 そして、これをきっかけに、私も汽車倶楽部に参加するようになりました。

 2000年10月14日の鉄道の日に、59647を一般公開するということで行ってみましたが、あらかじめ地元の新聞各紙に一般公開の記事が掲載されていたためか、見学者が多く、家族連れから年配の方まで、また、国鉄OBの方も見学に来られていました。

 意外だったのは鉄道ファンの方たちの訪問はほとんどなく、大多数がごく普通の家族連れだったことでした。この傾向は現在も変わりがなく、静態保存の機関車には鉄道ファンは興味を持てないのでしょうか。それとも興味はあってもわざわざ行くほどのものではないからでしょうか。このへんの心理は私にも理解できますので、これ以上は触れないようにしましょう。

 ところで、汽車倶楽部の代表をされている方から、59647の整備は、国鉄門司機関区OBの方が中心になってされていると聞かされていましたが、なんとこの日は59647の下回りの一部が外されて分解されていました。

 国鉄門司機関区OBの方は、昭和5年のお生まれで14才で国鉄に入られたとのことで、門司機関区では検査長をされていたそうです。私はこのような光景は、蒸気機関車の現役時代に機関区の検修庫で見て以来でした。

 本当のところは、私自身、静態保存機には、興味はあってもわざわざ足を運ぶことはほとんどありませんでした。荒廃し朽ち果てたり、きれいに整備はされているものの、現役の時とは似ても似つかない厚化粧や保存用の改造が施された様を、見る気持ちにはなれなかったのです。

 しかし、59647はそうではありませんでした。動かないことを除けば、極力現役のころの姿に基づいて整備されていました。

 汽車倶楽部では、その後、2000年12月23日に直方−鳥栖間往復で、DD51牽引50系客車をイベント列車として走らせました。定員400名のところに700名くらいの応募があり、乗れなかった方には申し訳なく思いましたが、イベント列車としては成功でした。

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汽車倶楽部での担当

 私は印刷会社経験と、かねてから鉄道写真集を出版したいという思いから、汽車倶楽部では書籍部門を担当することになりました。

 地元をテーマに、かつ内容を絞った写真集を作りたいと考えていますが、これは実現できるか、大変きびしい状況です。

 私の鉄道写真集を出版したいという思いは“後世に継承するために収集、整理、保存し、それを一般に公開する”という願いからきています。(一般に、著名でない鉄道趣味の先輩方の場合、悲しいことですが他界されるに際して、その先輩方の写真や資料が継承されることなく失われていくことが多い、と聞いています)

 その他、鉄道サウンド部門と汽車倶楽部のホームページ制作を担当しています。

 鉄道サウンドでは、過去に録音した中からDF50(MAN形)、DD51、ED76、EF30、オハフ33やオハフ61などの旧形客車、クモハ41やモハ80などのつりかけ電車、キハ58やキハ55急行などのCD化を考えています。

 以上、私の汽車倶楽部での担当は、上記の「鉄道書籍」、「鉄道サウンド」、「ホームページ」制作の三つということになります。

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九州の鉄道文化施設について

 かねてから、九州に本格的な鉄道博物館が存在しないことに、不安を持っていました。中国地方以東にはすばらしい施設がいくつもあるのに、ほんとうに九州にはありませんでした。

 ようやく、門司港レトロ地区での鉄道博物館が、現実のものとなりましたが、すでに九州電化のパイオニア421系電車やED72量産型、日豊本線優等列車無煙化の立て役者DF50など、九州の鉄道の発展に貢献した車両が現存しません。

 以前から、自治体や鉄道会社などが、この種の施設を造ることに期待を持っていたのですが、汽車倶楽部の代表の方との出会いは、考えを一変させてしまいました。

 一般に、これらの施設設置にあたっては、自治体や鉄道会社に働きかけるのが通常ですが、これは、口は出すが金も体も出さない、ということで、あまりほめられたものではありません。ところが汽車倶楽部の代表の方は、口も出すが金も体も出したわけです。

 今では、自治体や鉄道会社に過度の期待を持つような、そんな考えはかなり後退しました。それは、汽車倶楽部という下地ができているわけですから、ここで、規模は小さくささやかであっても、その思いを実現していけばよい、そんな希望を持つことができたからです。

 具体的には、鉄道に関する多くのこと、車両や設備、部品、また、それらを撮影、録音したものなどを公開し、後世に残す。たとえば、鉄道部品(SLのナンバープレートやサボなど)を自宅で一人ながめて悦に浸るのではなく、汽車倶楽部の展示室に展示して大勢で見て楽しむ。

 私も、いつかは死ぬわけですから、自分が記録した写真や録音物などを汽車倶楽部に託して、後世の人たちに見てもらいたい、聞いてもらいたい、歴史の学習や研究の場にしてもらいたい、そう考えるようになったのです。それに、なによりも汽車倶楽部に来れば、鉄道に関するものに接することができるし、また、OBの方たちや同じ鉄道好きの方たちと話ができる、そんな喜びは何にも代えられないものです。

 たしかに、お金のかかることですから、それも半端なお金ではないので夢のようなことだと思いますが、しかし、少し目先を変えるだけで、そんなに困難なことでもないような気がします。

 たとえば、酒、たばこ、コーヒー、ジュース、競輪競馬賭け麻雀などのギャンブル、パチンコ、人によっては風俗、これらの出費を考えたとき、一日に300円浮かせるだけで年間10万円、10年後には100万円。これを100人の仲間が実行すれば1億円にもなるわけです。

 まんざら不可能な数字でもないのですから、こんなことを考えていると、今の汽車倶楽部に隣接する土地を取得してそこに線路を数百メートル敷き、公開日には59647や身よりのない放置された蒸気機関車などを、ディーゼル機関車で庫外に引き出す。ディーゼル機関車の運転会を行う、など、どんどん夢が膨らみます。

 一日300円を100人の仲間で10年間。もしかしたらできるかも、そんな希望を持ったのです。

 もう、どこかに頼るのは難しい。ならば、自分たちが自分たち自身で動かなければ何も起きません。

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復活蒸機と8620

 蒸気機関車が復活運転することは、現役蒸気機関車終焉時には考えてもみなかったことです。その先べんをつけたのが大井川鐵道でしたが、まさか北から南まで、こんなに多くの蒸気機関車が復活するとは思いもしませんでした。

 JR九州も58654を復活させ、多くの方たちを楽しませているのはうれしい限りです。特に、蒸気機関車を初めて見る子供たちにとっては、貴重な体験や学習の場になると思います。

 家族で訪れて、運転室を親子で見学し、すすの付いた手で顔をさわって、お父さんもお兄ちゃんも顔を黒くする。そのそばでお母さんや妹が笑っている。そんな光景が復活蒸機には似合います。

 JR九州の58654は、鉄道ファンの間では、その形態から必ずしも評価されていないのかもしれませんが、それはたいした問題ではないと思います。少なくとも、鉄道ファンのために58654を復活させたわけではないのですから。

 ところで、話は変わりますが、当時、私にとって最も好印象の8620は、若松機関区の88622でした。

 この機関車は正面ナンバープレートが形式入りで、煙突も化粧煙突でしたので、お気に入りの方も多かったと思います。その上、他の若松機関区の8620と違い、テンダのリベットが健在で、後部のはしごもD51のような手すりタイプに改造されておらず、その点も好印象でした。新小岩時代とは、火の粉止めや煙室扉ハンドルの差異が見られ、これらも印象を良くした要素でした。

 しかし、1973年の夏ごろに、正面の形式入りナンバープレートが盗難に遭ったことは非常に残念でした。さらに、廃車後は壱岐という、鉄道とはまったく無縁の島に渡り静態保存され、現在ではあまり良い保存状態ではないと聞いています。

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大井川鐵道のC11190とC1148の添乗

 大井川鐵道のC11190には、ちょっとした思い出があります。それは、C11190で顔なじみになった機関士さんに、後日、C1148で矢部線の筑後福島から羽犬塚までと、羽犬塚駅構内の入れ換えに添乗させてもらったことです。

 その機関士さんは、タレントの由利徹さんに似ていて、C11190では筑後福島で出発までの間、いろいろなところを動作させて説明していただきました。この時、C11190は丸い穴が4つ開いた船の舵のような煙室扉ハンドル(梅小路に保存されているD50140と同種のもの)をつけていたのですが、私のわがままを聞いてくださって、その位置を×のようにバランスの良いところで止めてくださったのです。本来なら、いっぱいに締めなければならないのですが。

 何度か矢部線に行くうちに、天候が急変し、しぐれタイプの冷たい雨が降り出した日があったのですが(その日はC1148でした)、写真どころではないので、出発時刻まで運転室で暖をとりながら、由利徹さん似の機関士さんと話をしていました。ところが、出発時刻が近づくと、「この雨だから、たまには乗って行かないか」と言われて、そのまま羽犬塚まで添乗させてもらうことになったのです。

 C11190には、そんな、由利徹さん似の機関士さん(残念ながらお名前を伺っていませんでした)と知り合い、それがもとで、C1148に添乗させてもらうきっかけとなった、良い思い出があります。

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飯田線の印象

 飯田線を初めて訪れたのは、クモハ54を中心とした旧型電車がいよいよ終焉を迎える段階に入ったころでした。

 飯田線は、まだ蒸気機関車が現役だったころから、鉄道雑誌で時々紹介されていましたので、そのころから興味を持っていました。特にED18やED19、それに流電クモハ52といった魅力ある車両、そして中央アルプスのすそ野を逆らわず走る独特の線形は、車両だけでなく、その素晴らしい沿線風景に鉄道ファンなら誰しも魅力を感じたことでしょう。

 そんな魅力ある飯田線でしたが、福岡から行くには東京へ行くよりも時間的に遙かに遠く、行く機会を逃すうちにED18、ED19、EF10はED62に代わり、流電クモハ52やその後を引き継いだ80系湘南電車も無くなってしまい、とうとう119系電車の最後の投入が始まろうとしていました。

 それでもクモハ54、クモハ53、クモハ43、クモハ51、クモハ50、クモハ61、クモハユニ64、クモニ13、クモニ83などの古豪が最後の力をふりしぼって活躍していましたので、宇部小野田線からゲタ電が無くなって以来、久しぶりに懐かしい釣り掛けモーター音を聞くことができ、それは終焉が迫っていることを感じさせないくらい、力強く私の耳に響きました。

 飯田線は豊橋−辰野間の距離もさることながら、それ以上に所要時間がかかるのが特徴でした。また、全区間を直通する列車も設定されていて、何度か辰野から豊橋、また豊橋から辰野まで釣り掛けモーターの音を聞きながら、全区間を走破する機会がありました。

 飯田線は、北部の中央アルプスをバックに自然に逆らわない線形の区間、中部の天竜川などに沿った急峻な地形を縫うように走る区間、南部の田園地帯を走る穏やかな区間、と性格の異なった3つの区間に分けることができるのですが、私は特に中部の区間、駅で言えば中部天竜から天竜峡までの区間に興味を持っていました。

 この区間は地盤が軟弱で、また天竜川などに沿ってへばりつくように敷かれた線路には、容赦なく自然の猛威が襲いかかりましたので、あちこちにその痕跡が残っていました。具体的には、線路の付け替えやトンネル内部の補強などが行われていたのですが、落石なども含めて、この区間を守る保線の方たちの苦労はさぞかしたいへんだったでしょう。

 また、佐久間ダムや平岡ダム建設に伴う水没区間が、線路の付け替え区間をさらに増やしたことも、この区間を印象づける要因になりました。

 3回目に訪れた1985年早春は、大嵐駅の佐久間側に見える旧線トンネルを歩いてみたのですが、夏焼隧道を出たところから先は全く線路の痕跡が確認できず、しばらく付近の林道を歩いたりして線路跡を探してみました。しかし、ここから先のダートは、落石、猿、熊、野犬などで危険だと聞いていましたので、その先はあきらめました。もしかしたらこの地点から水没区間になっていたのかもしれません。

 佐久間ダム建設に伴う付け替え区間以外にも、興味を持った地点がありましたので、ここも3回目の訪問のときに歩いてみました。

 実は3回目の訪問は、すでに119系電車にすべて置き換わった後でしたので、1回目と2回目の旧型電車撮影の際に気になっていたことを確認するためと、殺気立った写真撮影に追われることなく、魅力ある飯田線沿線を見てまわることを主体に訪れました。そのため、写真はスナップ程度でじゅうぶんなので標準レンズのみのカメラ1台、銀箱無し、モータードライブ無し、三脚無し、寝袋無し、フィルムはネガカラー、と機材は軽装で、また中央アルプス駒ヶ岳へロープウエイで登ったり、駒ヶ根や飯島の町、伊那本郷や七久保周辺を散策するなど、通常の撮影とは違った余裕のある、ゆっくりとした旅をしました。

 宿泊についても再訪という意味から、すべて1回目と2回目に宿泊した旅館を利用しました。

 北部は、目の前に屏風のような巨大な中央アルプス空木岳や南駒ガ岳が迫る、飯島駅から歩いて数分の旅館。
 中部は、城西駅から向市場側の有名な渡らずのS字鉄橋を真横に見ることのできる旅館。ここは夜寝床についてから聞く鉄橋を渡る旧型電車の釣り掛けモーター音や、単機ED62の5軸のジョイント音が最高の旅館でした。
 他には上市場駅近くの清流荘という公営のりっぱな宿泊施設。ここの職員に美人のお姉さんがいて、当時飯田線を訪れるファンの間でちょっとした話題になっていました。

 佐久間ダム建設に伴う付け替え区間以外で興味を持っていたのは、城西と向市場の間にあるトンネルでした。このトンネルは、城西側は旧線と新トンネルが分かれる地点があるのですが、向市場側は列車から何度探しても分岐部分がわからずじまいでした。3回めの訪問でそれを確認するため、城西の渡らずのS字鉄橋を真横に見ることができる旅館に宿泊することにしました。

 実はこの旅館は1回目と2回目の訪問でもお世話になり、ここをベースに周辺の撮影を行ったのですが、3回目もこの旅館に宿を取り、S字鉄橋を河原に降りて散策したり、向皆外の一度も列車が走らないまま崩落したトンネルや、水窪の町の散策などを行いました。

 城西と向市場の間にあるトンネルについては結果から言いますと、「向市場側の分岐はトンネルの中」ということになります。

 最初はどこかに旧トンネルの向市場側があるはずだと思って、付近の山野を歩き回ったのですが、結局何の手がかりもつかめず、これだけ探しても無いのだから、もしかしたらトンネルの中で分岐しているのではないかと考えるようになりました。そして列車でこの区間を往復し、トンネルの中での分岐地点を確定するに至ったのです。

 からくりがわかってしまえば何のことはないのですが、しかし、よくも地盤の軟弱なこの地方でトンネルの中で新線トンネルを分岐させたものだと驚いたものです。

 今、一番乗ってみたい線区はどこかと聞かれれば、迷わず「飯田線」と答えます。季節は春です。雪を頂いた中央アルプスと沿線に咲く桜の花、この時期が最高です。

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最後の旧型電車
クモハ42001

 飯田線と鶴見線大川支線の旧型電車が引退しても、小野田線本山支線のクモハ42は奇跡的に走り続けました。しかし、最初にクモハ42005が脱落し、そして一番好きだったクモハ42006が続き、最後に残ったクモハ42001もとうとう引退してしまいました。

 クモハ42は、(16)の「魅力ある車両の終焉」で、車両に対して関心が薄れていく中で、わずかに残された現役でなじみのあった車両ですが、それもとうとう無くなってしまいました。

 宇部小野田線の旧型電車は、子供のころは昼間に下関まで4両編成で乗り入れていましたから、電車なのにどこかオハフ33に似た雰囲気を持つこの系統の車両に、ずいぶんと興味を持ったものです。

 特に、クモハ42は、乗車して窓のあたりだけを見ていると、スハフ32に乗っているような錯覚さえ覚えたくらいでした。

 現役車両で、子供のころからなじみのある車両は、あとどのくらいの期間活躍できるのでしょうか。これも、停止することのできない、時代の移り変わりという現実なのでしょう。

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失われた記録

 私の不注意から、鉄道録音テープのいくつかを失ってしまいました。

まだ、オート録音レベルのモノラルラジオカセットを使っていたころのテープなのですが、鉄道サウンドは、興味がない方にとっては単なる雑音に過ぎなくても、私にとっては貴重な財産でしたから残念です。

 いくつか印象深かったものをあげてみますと、

(1)1974年2月24日 1492レ C1148 貨物
 ●矢部線 筑後福島→羽犬塚と羽犬塚入れ換え 運転室乗車

※タレントの由利徹さん似の機関士さんに、C1148に乗せていただいた時の録音でした。羽犬塚入れ換えはなかなかの迫力ある音でした。

(2)1974年10月20日 845レ D51797 客車
 ●山陰本線 綾羅木 発車

※静かな朝の無風状態の中、D51797のドラフト音が周りの家々にこだまして、今まで体験したことがないくらいの迫力ある重低音ドラフトを収録した内容でした。それはまるで自然のサラウンドで、D51797のドラフト音にすっぽりと包まれたような体験でした。写真はその時のカットです。

(3)1974年10月20日 844レ D51753 客車
 ●山陰本線 下関→滝部 乗車

※最後まで残った山陰本線上りD51牽引844普通列車でした。写真は下関運転所から下関駅ホームに向かうところを同駅ホームから撮影したものです。この844列車を録音するファンは8月まではあまり見かけなかったのですが、9月を過ぎると次第に増えていきました。

(4)1974年11月3日 844レ D51145 客車
 ●山陰本線 下関→滝部 乗車

※同じく山陰本線上りD51牽引844普通列車でした。この頃になると844列車を録音するファンの方が増えて、客車一両目のデッキは次第にラッシュアワーのようになっていきました。なお、D51145のドラフト音は大きく、またたいへん歯切れが良かったので、この録音テープを失ったのは残念です。

(5)1974年11月17日 844レ D51473 客車
 ●山陰本線 下関→滝部 乗車

※同じく山陰本線上りD51牽引844普通列車でした。当日は雨で、ところどころ空転が収録されていました。なお、D51473は汽笛の音色が甲高く、また、ヒューンというインゼクタの音も出ていました。

(6)1974年11月23日 844レ D51720 客車
 ●山陰本線 下関→安岡、小串→滝部 乗車

※同じく山陰本線上りD51牽引844普通列車でした。この日も雨で、やはりところどころ空転が収録されていましたが、録音していた他のファンの方が機関士さんに空転を頼んでいましたので、「お願い」の空転だったかもしれません。

(7)1974年11月24日 844レ D51869 客車
 ●山陰本線 下関→滝部 乗車

※同じく山陰本線上りD51牽引844普通列車でした。前日11月23日と2日続けての録音でした。なお、D51869はインゼクタの音が歯切れ良く、ヒュンヒュン音が出ていましたので、この録音テープを失ったのはたいへん残念です。

(8)1974年11月30日 844レ D51720 客車
 ●山陰本線 下関→滝部 乗車

※同じく山陰本線上りD51牽引844普通列車でした。この日がSL牽引最終日でした。客車一両目のデッキは、身動きできないくらいの混みようでした。

(9)1975年1月6日 494レ C58277 貨物
 ●志布志線 志布志 発車

※C58牽引志布志線貨物列車の志布志駅発車は、よく空転が確認されました。この時も数回空転してC58277は志布志駅を出発していきました。

(10)1975年1月6日 C5557
 ●日豊本線 都城 入れ換え

※あのC5557が貨車の入れ換え機に落ちぶれてしまって、何とも悲しい思いをしていたのですが、入れ換え作業には急発進急加速があるため、今までとは違うC5557の表情を見ることができたのも確かでした。この録音は都城駅での入れ換え作業を、C5557を追いかけながら長時間にわたっての収録でしたので、テープを失ったことはとてもつらいです。

(11)1975年1月7日 C58277
 ●志布志機関区 入れ換え

※この収録は庫の中でC58277がC11を移動させる時の録音でした。このときのC58277はよく空転しました。あまりにも激しく空転して、なかなかC11を引き出せなかったのですが、庫という屋内もあって、空転の激しい音が庫の中に響き渡り、ど迫力の録音でした。

(12)1975年1月7日 494レ C58277 貨物
 ●志布志線 志布志 発車

※前日の494レと同じ録音条件でした。前日に見せたC58277の空転続出の発車音を期待しての録音でしたが、この日もC58277は空転しました。この貨物列車発車収録の少し前に、庫の中でど迫力の空転を見せられていましたので、「C58277=空転機関車」、というようなみょうな印象を持ってしまったものです。

(13)1975年2月23日 201レ 急行屋久島1号 スハフ42
 ●鹿児島本線 熊本→八代 乗車

※駅を通過しながら高速で走行する旧型客車仕立ての急行列車は、乗車していて最も心地良いものでした。この録音は、直線区間が多く、当時はまだロングレールも少なかった熊本−八代間を高速走行する、スハフ42のサウンドでした。

(14)1975年3月23日 C5557+C57175 さよなら列車
 ●鹿児島機関区、北永野田−大隅大川原通過、宮崎機関区
 ●C5557回客宮崎発車、C5557西鹿児島入れ換え
 ●C5557単機西鹿児島最後の発車

※まさしくC5557最後のサウンドでした。特に、西鹿児島で回送客車の入れ換え作業を終えて、鹿児島に向けて単機で発車していくC5557の最後の様子が、駅のホームの雰囲気を含めて収録されていましたので、このサウンドを失ったことは最大の不覚でした。

関連記事

(15)1975年8月6日 6793レ D51241+D51118 貨物
 ●夕張線 紅葉山 発車

※空の石炭列車とはいえ、早朝のつゆの降りたレールは、2両のD51に激しい空転をもたらし、強く印象に残る録音でした。写真はその時のカットです。

(16)1975年8月7日 5791レ D51916+D51828 貨物
 ●夕張線 紅葉山 発車

※前日と同じですが、空転のバリエーションに違いがありました。

(17)1975年8月7日 6793レ D51484+D51866 貨物
 ●夕張線 紅葉山 発車

※同じく、空転のバリエーションの違いによる録音でした。

(18)1975年8月9日 5785レ 59609 貨物
 ●幌内線 三笠−幌内 通過

※写真のカメラ位置の少し後ろに、録音機をセットしています。

(19)1975年8月11日 6793レ D51320+D51767 貨物
 ●夕張線 紅葉山 発車

※D51重連の紅葉山発車が忘れられず、再び訪れたときの収録でした。紅葉山で早朝の重連2本を収録するときは、駅のホームの待合室か跨線橋で、寝袋にくるまって一晩をあかすのが常でした。

(20)1975年8月12日 29601
 ●根室本線 赤平 入れ換え

※赤平駅で長時間にわたって入れ換え作業を行う29601でした。29601の急発進、急制動の迫力あるサウンドは聴いていて飽きませんでした。

(21)1976年7月11日 840レ EF301 客車
 ●山陽本線 門司→下関 乗車

※1978年1月にステレオ録音でEF301を録音したものがあるのですが、この時は電池電源の調子が悪く、失敗録音に終わっていましたので、このテープが唯一のEF301のサウンドでした。

(22)1976年7月11日 840レ DF50571 客車
 ●山陰本線 下関→福江、吉見→滝部 乗車、滝部発車

※一番好きだったDF50571のサウンドでした。DF50571はエンジン音、過給器音、モーター音、排気音のどれもが最も良好な音でした。

(23)1976年8月4日 802レ急行さんべ3号 DF50529 客車
 ●山陰本線 安岡付近→梅ヶ峠、小串→滝部 乗車

※山陰本線東部にDF50やDD54の撮影、録音に行くときに乗車した急行「さんべ3号」を牽引するDF50529のサウンドでした。この時のDF50529は、過給器音がたいへん大きく、またDF50 MAN車独特の排気音もインカーブできれいに収録できていたので残念です。

(24)1976年8月7日 732レ DD5427 客車
 ●福知山線 丹波竹田→市島、石生→丹波大山 乗車

※一種独特なサウンドを聴かせてくれたDD54の収録でした。後にJR九州が製造したキハ200に、DD54のエンジン音に似た何かを感じたのは私だけだったのでしょうか。

(25)1976年8月11日 634レ DD5428 客車
 ●播但線 青倉→生野 乗車

※25‰上り勾配の途中で、DD5428の足回りから灯油のような臭いの白煙を噴き出し、とうとう停車してしまった様子が収録されていました。しばらくして動き出しましたが、人間が歩くくらいの速度しか出ず、生野到着がずいぶんと遅れてしまいました。

といったところです。

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もう一度通ってみたい線路

 鹿児島本線戸畑−枝光間は、牧山トンネルの新旅客線が開通するまでは、洞海湾に沿って工場の中を通り抜ける、独特の光景が広がる区間でした。

 当時は小学校の社会科でも、北九州工業地帯を誇りに思うような教育が行われていたため、小倉から黒崎にかけて車窓に広がる巨大な煙突群や、高炉が立ち並ぶ光景は、私にとって何とも頼もしいものでした。その中でも戸畑−枝光間は、工場の中を通り抜けるように線路が敷かれていましたから、別世界のような光景が展開したものです。

 あれから多くの時が経ち、また、北九州も重工業地帯としての役目を終えた現在、昔のような工場だらけの中を通り抜ける光景は、もう見ることはできませんが、貨物専用線となった旧旅客線を今一度、通ってみたいものです。

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人の道、道徳

 保存活動を通して残念なことがあります。それは、鉄道施設からの盗難などの話を聞くとき、鉄道文化財の保存活動において、盗難やいたずらという本来は人間の道徳で解決するはずの問題にまで、エネルギーを費やさなければならないことです。

 公園などに保存されている車両だけでなく、鉄道会社などで営業に使われているものまでが盗難の対象になっているとは、いったいどうなっているのでしょうか。心の痛む思いです。

 古くはSLブームのさなか、若松機関区の88622の前面形式入りナンバープレートや、志布志機関区の複数のC11のナンバープレート盗難など、特に志布志機関区は夜間の機関区構内での写真撮影を許していただけるなど、鉄道ファンには大変理解のある機関区でしたから、その方たちを裏切る行為は許せないことでした。

 これは、鉄道ファンの収集癖の歪んだ一面をさらけ出したものだと思いますが、なかには商売のための盗難行為もあるように聞いています。

 しかし、これらの行為は、何も鉄道ファンだけに限ったことではないので、人間の持っている本質的な「さが」なのでしょう。

 人間の理性がこれらを解決してくれる、と信じたいものです。


過去に撮影した写真をいくつか掲載しました。(新規ページで開きます)
写真01★★★★★写真02

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