■ 鉄道車両音の生録について(鈴木 弘之 編)

(1)取っかかり

私が蒸気機関車の音を録音しようと思い立ったのは、昭和48(1973)年ごろだと思います。
といいますのも、当時は機関車なんか写真に撮るのが正道で録音なんか邪道だ、という気があったものですから、録音をしようなどとはサラサラ思っていませんでした。
そんなふうに考えていた背景には、ステレオ録音ができて耐久性にすぐれ、音質の良い録音機がなかったということもあります。

(2)機材について(録音機)

ちょうどその頃、ソニーのTC-2850SDのもうひとつ前のモデルが発売されて、これなら使えそうだ思って購入したのが、道を踏み外す第一歩でした。
はじめのうちは、写真が主で録音は従、というよりほんのオマケのつもりでしたから、録音場所や日にちなど全くメモしていませんでした。
そうこうしているうちに、くだんのTC-2850SDが発売され、これに乗り換えた頃から少しずつ録音にも比重を置くようになっていきました。

不思議なことに、その頃使っていたマイクが何だったか思い出せないのです。
そんなわけで、一番古い日付のテープは昭和49(1974)年7月21日にC11を客車のデッキから録音したものですが、それ以前に録音したテープもたくさんあります。

(3)返り咲いたC11の録音

そのころC11が田川線に帰ってきたので、子供の頃から8620や9600と同じぐらい好きだったC11を一度は自分の手で録音しておかないと、二度と音を録る機会はないかも知れないと思っていましたので早速とりかかりました。
これは後述のプリモのワンポイントマイクです。ワンポイントマイクは一本ですむので、以後多用することになりますが、一本だとつい軽く考えて、手持ちのまま使うのでハンドリングノイズが入って失敗します。どうしても手持ちにするときは手袋が必需品ですが、自分では手袋は使っていないので、言う資格なし、か。

この録音が「とんだ失敗の巻」で、後藤寺から油須原まで録音するつもりで422列車に乗り込んだのはよかったのですが、このへんは全く記憶がないのですが、考えられるストーリーとしては、「伊田駅で停車中に多分数分間のテープがもったいないのと、電池の寿命のことを考えて、録音を一旦止めてスタートを忘れてしまい、気がついたら勾金だった」、というのが一番もっともらしい理由のようです。

これも、もう一度録り直せばいいものを、写真の方を優先しているうちにC11は姿を消してしまいました。

そんなわけでこのテープは、伊田駅到着後は勾金駅発車という世にも不思議な録音となっています。

(4)機関車に録音機を積み込んで録音

機関車に録音機を積み込んで録音しようなんて、夢物語りに過ぎませんでしたが、岡山在住の国鉄勤務の友人(故人)が「ホラ」といって私にくれた一本のカセットテープが転機となって、自分でなんとかステレオ録音できないか本気で考えるようになりました。
そのテープはなんと田川線の本務機49679のキャブで録音したモノラルのテープだったのです。このときの後補機は奇しくも59684でした。昭和49(1974)年12月8日のことです。

このテープを聞いて、これは機関区に行ってたのめばなんとかなるに違いないと考え、筑豊在住の国鉄勤務の友人をけしかけて、彼の知り合いが指導助役をしている後藤寺機関区に録音機をかついで出かけて行きました。ところが「本務機の乗務員は行橋区の人だからちょっとたのめない」、といわれ一時は失望したのですが、その指導助役氏が「後補機なら後藤寺区なのでどうか」、と言って下さって、それもいいだろうと思い直し、早速後補機の乗務員さんにたのんで、録音機をテンダーの石炭の後ろの風が当たりにくいところにセットしました。
私はそのまますぐに写真の撮影に行くつもりでしたが、指導助役氏が一緒に行った友人を懐かしがって離してくれないものですから、写真はあきらめて録音機は伊田駅に機関車が帰ってくる頃に行って降ろしてもらいました、同年同月12日のことです。このときの本務機はこれまた奇しくも59684でした。
このときの録音はとてもすばらしいもので、私の宝物になっています。

後で考えついたことですが、こんなことは機関区に行って上の人からたのんでもらうよりも、ぶっつけ本番で機関士さんにじかにたのんだ方がかえってよかったかも知れないということでした。

この方法は翌50(1975)年2月18日、高森線のC12のフロントデッキに録音機をのせてもらおうと、機関士さんにたのんでみたら、いとも簡単にOKが出たことで、はからずも実証されました。もちろん蒸気機関車も「そろそろおしまい」になる時期であったことで、機関士さんの同情もあったことと思います。

面白いことに、高森線のC12(に限りませんが)の入れ替え風景を録音しようと思って、二度三度と挑戦するのですが、入れ替えだからといって必ずしもマイクの前を行ったり来たりするわけではないということです。フロントデッキで録った音は地上で録った音と比べてみると音に動きがなく不満に思えてなりませんが、地上で録った音は前述の通りで、目の前を右に左にと期待通りに動かない機関車にも不満がつのります。ですが車上の音の迫力はいかに小型といえどもさすがに唸らせられます。人間はほんとうに勝手なものですね。

そうこうしているうちに、時代はビデオへと移っていき、蒸気機関車もなくなって、私の
「レールウェイサウンド」時代も少しずつ「ビデオ」の時代へと変わって行くのですが、
これは本論から離れますので省きます。

(5)台湾詣で

台湾に、日本製の蒸気機関車が多数残っていて活躍しているということを鉄道雑誌で読んでからは、いつか必ず行ってみようと思い、その後何度となく訪台しましたが、ここでも
友人になった台湾の機関車乗務員ほか四人のかたがたに、ほんとうによくしていただきました。

はじめて台湾の土をふんだのは、昭和51(1976)年7月17日のことでした。
それ以来、台湾の鉄道職員4人の方たちに暖かく迎えていただいたことで、台湾がとても居心地のいい場所となってしまいました。

私が録音したのは、昭和52(1977)年3月24日台湾縦貫線(山線)の苗栗(びょうりつ)から泰安(たいあん)までの5区間のうちの上り勾配3区間と、そのほかの1区間の計4区間のもので、事前に手紙で今回は録音したいと言っておきましたところ、友人二人組が乗務する客車で、苗栗を早朝に始発する下り281列車をセットしてくれました。

機関車はC55形(戦後の形式はCT250)3号機(CT253)で機関士「黄」さん、助士「林」さんの二人が乗務してホームに入ってきました、ホームの先端で待っていた指導の「謝」さんと私の二人はすぐに乗車です。乗ったらまず3人には私に話しかけないように念を押し助士席に座らせてもらいました。
信号や合図などの喚呼は日本とよく似ています、違うのはオーライというところでしょうか。「出発進行」は「カイチョ・オーライ」。カイチョは「開車」のことで、日本語では発車の意味です。

「コーブ・オーライ」は説明の必要はないでしょう、閉塞信号の確認は「ジンタンオーライ」と聞こえますがこれは「進站」のことではないかと思うのですが、ほかの話に夢中になってしまい確認するのを忘れていました。
「進站」の站は駅の意味ですから、駅に進むということは前進ということになるのだと思います。(なお発音は北京語ではなくすべて広東語です)

出発信号の喚呼は「カイチョ・オーライ」ですが、いざ出発の時は汽笛を短く1回吹くだけで、特に合図確認の喚呼はしないようです。この短く1回というのがわれわれ日本人にとっては、はなはだ物足りない気がするのですが、事前にそこまで気が回らなかったせいで「少し長めに」とたのまなかったことが悔やまれます。

録音を聞いていただけば分かるように、機関車やレールはとてもよく整備されており、走行中の騒音が非常に少ないことが印象的でした。

この友人たちの協力で、日本のC55(CT250)形のキャブでの録音に成功し、この三本のテープが何よりの宝物になっています。

(6)ミッドサイド方式マイクとダミーヘッドマイク

録音機はながらくソニーのTC-2850SDを愛用していまして、マイクロホンは二代目のTechnicsのRP-3850E-2というペアマイクを最初使っていました。
台湾での録音だけは、小型軽量のTechnicsのRS-686Dという出たばかりの「商売もの」と、マイクも当時「プリモ」というメーカーがワンポイントマイクに「ミッド・サイド方式」という新機軸を盛り込んだ新しい製品「EMU-4620」を発売したばかりでしたので、早速これを購入して持って行きました、これは期待に違わないいいマイクでした。

当時オーディオの雑誌などでダミーヘッドマイクというものが頻繁に取り上げられるようになって、このマイクの作り方まで載っていましたので、プラスチックの板で作ったこともあります。録音した音は人頭型のものとくらべて遜色はありませんでした。

このマイクの理論は、「人間の頭のような形をした本体の耳の部分にマイクを仕込めば、ヘッドホンで再生したとき後ろの音はちゃんと後ろから聞こえるはずだ」、というものでしたが、実際には理屈通りには行かなかったようで、後ろの音が後ろに定位する、というのはかなり難しかったようですが、ヘッドホンで聴く限りは、本当に自然な聞こえ方をする不思議といえば不思議な、当然といえば当然な、面白いマイクです。
のちにTechnicsからRP-3280Eという人間の頭の型をした、色はグレイでしたが、不気味
なスタイルのマイクが発売されたので、飛びついたことはいうまでもありません。

このマイクは貝島炭坑線の録音に多用しましたが、それ以外にはほとんど使った記録がありません。(ほかは後藤寺駅構内で一回だけ)
また、このマイクを三脚の上につけて持って歩くには少なからぬ勇気を必要としました。
なにせ、やや小振りとはいいながら頭の格好をしているのですから。
三脚につけたときは、風防もかねて必ず薄手の「風呂敷」(今は死語ですね)をかぶせて、生首と間違えられないように気をつけていました。(間違えられたことはありませんが)

この三種のマイクは今も持っていますが、録音機の方はもう使うこともないだろうと思って、だいぶ使い古した品物で愛着はありましたが、時代はDATへ変わっていてアナログはもう使うことがあるまいと思い、引っ越しのとき捨ててしまいました。

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